芋虫ブログ

映画、カレー、芸人ラジオ、ミステリの感想など。基本、好きな物のみ取り上げます。

【短編小説】 ある実在するH氏の生涯

 


 幼い頃から、周りの言っていることが理解できなかった。

 

 自我を持つのとほぼ同時に、自分は頭が悪いのだ、ということを自覚していた。

 学校の授業には最初からついていけなかった。

 足し算とか引き算とかの結果、答えを示すおはじきが七個になる理由が、自分にだけ分からなかった。

 先生が自分の机の横に来て、何度も教えてくれたけれど、やっぱり分からなかった。

 

 運動も苦手だった。小太りだったので腕力はそこそこあったはずだが、その力の使い方が良く分からず、ドッジボールのようにルールが存在する遊びにはついていけなかった。体重が枷になっているのか、走るのも遅かった。

 

 努力でそれらをカバーする、という発想は無かった。

 努力の仕方が分からなかったし、それ以前に、自分の欠点を克服するイメージが自分には湧かなかった。

 自分は劣等であるという事実だけを、素直に感じていた。

 

 


 小学校時代はそうして何もなく終わった。

 授業中は黒板の端などを見て過ごし、体育では女子たちに笑われ、放課後は大勢で遊ぶ時だけクラスの連中に呼ばれた。サッカーや野球のときには、何だかよく分からないが「それは反則だ」と言われて試合を中断されてしまうため、自然とゲームに参加せず公園の隅っこに座っているようになった。

 

 そうしている内に公立の中学に上がった。

 周囲の話が理解できないことが多くなった。クラスメイト達は流行りの音楽や電子機器の話、部活の話、恋愛の話などで盛り上がったが、それらの何が面白いのか理解できず愛想笑いを続けた。

 「部活に入れ」と言われて、担任に勧められるまま卓球部に入部した。練習をさぼることはなかったが、特にうまくなることはなかった。皆が自分専用のラケットを買っていることに気づかず、自分だけ卒業するまでずっと備品のぼろぼろのラケットを使っていた。

 

 友達に遊びに誘われることはなくなった。女子たちは自分のことを影で笑っているらしかったが、何を笑われているのか分からなかった。そもそもこの頃には、語彙力が足りないためにまともに人と会話が出来なかった。

 

 緩やかないじめも経験した。格好良い男子に激しい言葉を投げつけられ、殴られた。椅子から転げ落ちて頭を打った。曖昧な世界が更に曖昧になるのを感じた。笑い声が聞こえた。立ち上がると更に殴られた。とにかく耐えるしかなかった。

 

 中学三年に上がった頃、進路希望調査が行われた。どうしていいか分からず放置していると、担任に呼び出された。未来だとか将来とか希望とかいう話をされた気がする。分からないので黙っていた。

 結果、地元の工業高校に進学することになった。そこなら試験も必要ないし、手に職をつけられる、との事だった。

 


 工業高校では、旋盤や溶接の実習を行った。金属を加工する技術だ。上手く行かないことがほとんどだったが、そもそも授業に参加していない生徒も多かったため、それほど怒られず、浮くこともなかった。

 

 高校は治安の悪い男子校だった。いわゆる不良と呼ばれる学生が大きな声を出して喧嘩しているのをよく見かけた。彼らは時たま金をせびり暴力をふるってきた。その時に差し出せるものは差し出したが、それ以上は耐えるしかなかった。不良たちの興味は、早い段階で自分を離れ他へ移っていった。

 

 家に帰った後はテレビを見ていた。ニュースや情報番組は意味がわからずつまらない。かといって、ドラマやアニメは展開が理解できないので、食べ物が映る番組をよく見ていた。見ているというより、ただ眺めていた。

 

 高校三年になり、また進路希望調査が行われた。会議室には、先生と、母親も居た。今後は夢とか将来とかは言われなかった。就職先を三つに絞ってきたから、どれか選ぶと良い、と言われた。食品会社の工場と、印刷会社の工場と、製鉄所の仕事だった。母は、「大企業のほうが福利厚生がしっかりしていて良い」と言って、印刷会社の工場を選んだ。

 

 次の年から、そこで働き出した。印刷会社では作業服を来て印刷機を操作する役になった。製品や版の移動、インキ準備、ゴミ出しが主な仕事。肉体労働だった。覚えることはさほど多くなかった。職場は、インキの匂いが鼻についた。空調が直で当たる場所であり、夏場は寒かった。

 

 勤務はシフト勤務で、昼勤と夜勤を繰り返した。最初は眠かったが次第に慣れた。土日が休みの仕事ではなかったが、休みの日に予定がある訳でもないので困りはしなかった。

 

 十二年目に工場が潰れるまで、そこで働いた。仕事内容は特に変化しなかった。仕事仲間と会話することはほとんどなく、休憩時間も寝て過ごした。

 

 工場が潰れた際、解雇はされず、他の工場へ異動になった。新しい工場での仕事もやはり肉体労働で、覚えることは少なかった。今までと違い金属部品のようなものを作る仕事だったが、それが何なのかはよく分からなかった。分からなくても出来る仕事だった。

 

 新しい工場は二百キロほど離れた場所にあった。当然引っ越しが必要で、会社の選んだアパートで、生まれて初めて一人暮らしを始めた。料理はしたことがないのでコンビニで夕飯を買った。洋服を洗濯しなければならないということを学んだ。

 

 四十二の時、父が死んだ。久しぶりに実家に帰った。母が喪主というものをやり、自分も喪服というものを着させられて、お経を聞いた。その時だけは仕事を休んでも良かった。葬式が終わるとまた工場に戻り働いた。

 

 四十九の時、今度は母が死んだ。名前の知らない親戚のおばさんから電話がかかってきて、「お前の母が死んだ」と教えてくれた。また喪服を着てお経を聞くのだと思った。今度は知らない人が喪主をやっていた。直接葬式会場に行ったため、実家には帰らなかった。それ以降、実家がどうなっているのかは知らない。

 

 その後も工場で働き続けた。夏服と冬服が変わる以外、何の変化もない生活が続いた。その工場では塩基性の薬品の匂いが漂っていた。空調は入っていたが、自分の立ち位置には風が当たらないため、夏は暑く冬は寒かった。アパートの空調も数年で壊れたが、どう直していいか分からずずっと放置していた。冷蔵庫も壊れていた。暑い時は水道水を飲んだ。風呂の電球も切れていた。滑って頭を打つことが何度もあったが、そのままにしていた。

 

 五十八の時、また工場が潰れた。不景気というやつらしい。今度は解雇された。それ以降は、一日家で過ごした。テレビを点けっぱなしにして、眺めていた。美味しそうな食べ物が映る番組をよく見ていた。

 

 仕事をしなくなってから時間を気にすることがなくなった。眠い時に寝て、のどが渇いたら水道水を飲み、腹が減ったらコンビニに行った。身体が痒くなったら入浴した。洗濯はしなくても怒られなくなったので、しなくなった。

 

 体力が衰えていった。立ち上がるのが億劫で、布団に寝っころがって過ごした。床ずれで、膝や腰が痛くなった。腸の調子も悪い。急に心臓が「きゅう」と痛くなることも何度かあった。

 

 ある日、目の奥がズキリと痛くなった。痛みで涙が出てきた。うずくまりひらすら耐えた。しかし収まらなかった。次の日痛みと共に目を覚ますと、視界がぼやけていた。目を擦っても治らない。初めてのことで、どうしていいか分からなかった。それ以降、痛みも消えず、ぼやけた視界の中で生きていくことになった。コンビニでおにぎりの味を選べなくなり、テレビに何が映っているか分からなくなり、家の中で転ぶ回数が増えた。

 

 そんな生活が十年以上続いた。布団の横の吐瀉物を片付けることも出来なくなっていた。しかし嗅覚はもうバカになっていたし、それよりも目の奥の痛みと、各関節の痛みと、胸の奥の痛みに耐えることで精一杯だった。

 

 ある日、腹が減ったのでコンビニへ行こうと思ったが、立ち上がれないことに気付いた。皮膚はひび割れていてひどい痒さだったが、それを掻きむしる体力もなかった。今後どうなるかを考える知能は無かった。息を吸うと胸の奥がきしきしと傷んだ。息を吐くと、口の端で吐瀉物を舐めていた羽虫が飛び立った。

 

 全身で耐え難い痛みを感じながら横たわって数時間経った頃、喉の奥に唾液が溜まり、腫れた扁桃腺に触れた。咳をする体力がなく、ゆっくりと唾液を嚥下した。肺に痛みが走った。しばらくして、また唾液が溜まる。再び嚥下しようとするが、もはやその体力は無かった。数ミリリットルの唾液は、ゆっくりと気管へと流れ、そして呼気の通り道を塞いだ。徐々に胸が苦しくなってきた。鼓動は勢いを増し、そしてしばらくすると逆に弱くなった。脳味噌がずきずきと傷み、冷たく感じてきた。視界がどんどん暗くなる。意識がゆっくりと薄らいでくる。

 

 消え入りそうな意識の中で、一瞬だけ、小学校の算数の授業のことを思い出した。あの時の、おはじき。答えのおはじきが七個になる理由が、自分にだけ分からなかった。おはじきはどうして七個になるのだろう。どうして自分にだけ分からなかったのだろう。おはじきがなぜ七個になるのか、自分も知りたいと、思っていたような気がする。しかしそんな感傷はすぐに消えた。最後に思い出したのは、最初に勤めた工場の強烈なインキの匂いだった。

 

 そしてH氏は死んだ。