【映画感想9】 『シン・ゴジラ』ーー日本政府のしたたかさを描く、"反セカイ系"映画
◼︎あらすじ
東京湾アクアラインの海底トンネルにて、陥落事故が発生。日本政府は「海底火山の噴火」と決定付けるが、直後に海底から未確認巨大生物が出現。やがて巨大生物は陸地に接近、ついには上陸。日本政府は大混乱の中、対応を迫られる。
◼︎感想
『シン・ゴジラ』はとても出来が良く、面白い映画だった。
しかし、どんな人におすすめか、というと中々難しい。
ゴジラシリーズの正統新作かというとそうでもないし、
庵野作品の正統新作かというと、演出は監督らしさが出ているけれど、ストーリー面ではそうでもない。
結論としては、社会派ドラマが好きな人におすすめ、という事になるだろうか。
---
※ここからネタバレを含みます。
『シン・ゴジラ』の主役は日本政府だ。
ゴジラのパワーや戦闘の描写ではなく、脅威を前にした日本政府の対応の描写がメインとなる。
作中の日本はかなりリアルだ(というか、日本国民が想像する日本政府をうまく表現している)。
例えば序盤、未確認巨大生物登場の対応に、大幅に遅れる。事実確認がとれない、会議ばかりで話がまとまらない……まさに日本的だ。結局、日本国は未確認巨大生物に対して何もすることなく、海に帰るのをただ眺めるだけに留まる。
しかし二回目以降は、その『日本的』な戦略のまま反撃に出る。明確なリーダーを持たず、明確なヒーローも居ないまま、熱心に働き、法律の隙間を突いて、他国も刺激しないよう気を使いながら、対策を練る。
かつて『どじょう内閣』なんて言葉もあったが、ここにきて日本のどじょう精神は本領を発揮する。
そしてついに日本国は、日本的な、地味な手法で自国を守る。ゴジラを停止させるだけでなく、他国から領土を守り、政治的な位置も堅持する。
正直言って、ラストの作戦は、絵面としてはかなり地味だ。核爆弾でドーンとやってしまった方が見栄えは良いし、観客も喜ぶかもしれない(パシフィック・リムみたいに)。
しかし日本人はそれを選ばない。本当の意味での最善策を冷静に模索する。そういう意味で、やはりこの映画の主役は日本政府(日本国)だった。
※ちなみに、ゴジラを完全に破壊しなかったのは、初代ゴジラに対する監督なりの配慮なのかな、と思う。
---
では、ゴジラシリーズ最新作としてはどうか。
それを考えるためには、まず『ゴジラ映画とは何か』という話になる。
もちろんそれは視聴者一人一人によって違うだろうが、
とりあえず僕にとって今までのゴジラ映画のテーマは『科学を軽々しく用いる人類に対する警鈴』だった。
水爆実験により産まれたゴジラ、それを上回るオキシジェン・デストロイヤー。高度経済成長期を前にして、科学技術に対するアンチテーゼが表明されていた。
『シン・ゴジラ』には、そういうテーマは無い。ゴジラが産まれたことに対する葛藤はなく、「産まれてしまったゴジラをどうするか」に終始する。
そういう意味で、『シン・ゴジラ』は従来のゴジラ映画とは異なる。
しかし、ここからは個人的な意見だけれど、この2016年に再び『人類に対する警鈴』を描いても、あまり面白くないと感じる。
今の日本人は、既に放射線の恐怖を肌で感じている。子供ですらシーベルトという単位を知っているし、原発の是非なんてうんざりするほど語られている。
そして何より、『警鈴』を鳴らすも何も、日本人は既に大災害を体験している。言ってしまえば、過去ゴジラ作品の『警鈴』を無視した先に、今の日本がある。
『シン・ゴジラ』では、警鈴のその後(=現代日本)が描かれている。放射線は地上に存在する。では、どうする? どう対応する? 考えましょう。『シン・ゴジラ』はそう言っている。
従来ゴジラ映画とは異なるテーマではあるが、「現代の視点から科学の脅威を捉えている」という点では、『シン・ゴジラ』はゴジラシリーズの最新作だと言えると思う。
---
では、庵野作品としてはどうだろうか。
もっと言えば、エヴァとの関係はどうだろうか。
演出がエヴァ的であることは言うまでもない。
明朝体の説明文、専門用語を捲したて緊迫感を出す手法、そしてエヴァのBGM。本作はエヴァシリーズの番外編だと言えるほど類似点は多い。
しかし、物語の展開を見ると、僕はむしろエヴァとは逆の物語だと考えている。
エヴァは『セカイ系』なんて言葉で語られていた。つまり、主人公の少年・シンジの一喜一憂が、世界の存亡に直結しているのだ。一応ネルフという巨大組織は存在するが、結局はシンジが居ないと使途に対応できないし、そもそもネルフはゲンドウの隠れ蓑に過ぎないし、ゼーレにも勝てない。世界はシンジに託されている。
こうした『セカイ系』が支持を得たのは、思春期の視聴者(自分含む)の鬱屈や願望にうまくマッチしていたからだろう。思春期の少年達は、現実世界においてはもちろん政府や世界を変える力など持っておらず、それ故に、簡単に世界が変わる(変えられる)物語を求めた。脆い世界を描いた作品を観て、肥大した自意識を満足させたのだ。何も出来ない矮小な自分を、少しの間だけ忘れることが出来た(少なくとも僕はそうだった)。
しかし、『シン・ゴジラ』はその真逆である。
日本政府は、とてつもなく強固だ。総理大臣が居なくなっても潰れない。ゴジラが来たって、他国に圧力をかけられたって潰れない。地味な国ではあるが、実際に日本を潰そうとしたら、大変に骨が折れるだろう。
それもそのはず、現在の日本という国は、優秀な人材が何十人も集まって「いかに国を存続させるか」を考え尽くした結果なのだ。間違っても、一人の少年に全てを託すような真似などしない。『脆い世界』(=セカイ)とは対極にあると言える。
ここからは更に個人的な感想だけれど、
僕は映画内でゴジラが暴れるシーンを観ながら、「大暴れして、もっと街を破壊してくれ」と思っていた。
怪獣映画の見方としては正解だろう。圧倒的なリアリティで描かれた日本国を、ゴジラに焼き尽くして欲しかった。強固なはずの世界が、いとも簡単に破壊される様が見たかったのだ。
しかし、そうはならなかった。日本国は勝利した。ゴジラですら世界を変えられなかった。
しかも、初代『ゴジラ』と違い、第二第三のゴジラが現れたとしても特に問題はない。そして葛藤もない。順当に、日本国は勝利し続けるだろう。
もはや日本国を脅かす脅威は存在しない。ましてや、無力な思春期少年なんか、眼中にもない。
僕はこれを、社会派--すなわち『反セカイ系』の映画だと感じた。
僕はエヴァのことを念頭にこの映画を観たので、その事が少し哀しかった。
放射性物資が半減するように、全ての脅威は消え去っていく。
もはや日本には、ゴジラとしてスクリーン上で表現すべき脅威も、希望も存在しない。